所属 | 分子化学系 |
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氏名 | 井本 裕顕 准教授 |
期間 | 令和元年6月10日-令和元年10月11日 |
滞在先 | ワシントン大学 |
シアトル留学記
6月某日。むっとする日本の風を残して、一路シアトルへと旅立った。成田空港から9時間余りでたどり着く、北米大陸で最も日本に近い都市のひとつ、シアトル。飛行機の窓がマウント?レーニアをとらえた。日本の大手メーカーがコーヒー飲料に名付けたことでも有名である。10年前、ニューヨークに留学して以来のアメリカ本土に少なからず緊張感が高まる。
カナダに隣接するワシントン州は、日本の夏を形容する湿気や猛暑という言葉とは無縁。飛行機を降りると、爽やかな晴天と涼風に少し緊張がほぐれた。出国前に日本人向けの不動産会社に紹介してもらったアパートに向かい、4か月にわたるシアトル生活をスタートさせた。アパートから徒歩数分のところにノースゲート?モールというショッピングモールがある。アメリカにおける都市近郊型ショッピングモールの先駆け的存在で、オープン当初は全米で話題になったらしい。
シアトルはパイオニアの街である。マイクロソフト?アマゾン?コストコ?スターバックスなど、シアトル近郊には世界に名だたる大企業が本社を構える。日本人野手としてメジャーリーガーの道を切り拓いたイチロー選手?城島選手もシアトル?マリナーズでキャリアをスタートしている。街を歩くと、多様性や新しいものを受け容れる空気が溢れている。最先端コンビニエンスストア“アマゾン?ゴー”に行ってみた。スマホアプリでアカウントを作成し、クレジットカードを登録すれば、入口の改札機にQRコードをかざして入場できる。あとは商品棚に並んでいる商品を持って、改札機から出るだけ。レジを通る必要も無く、自動認証を経てカード決済される。本当に大丈夫かな、と不安になるがすぐにメールで決済のお知らせが来てほっとした。まだ私の心が最先端技術に追いついていないようで少しがっかりする。
私の留学先はアメリカを代表する州立大学のワシントン大学。University of Washingtonを略してUW(ユーダブ)の愛称で呼ばれる。クラシックなものからモダンなものまで、多種多様な建物が立ち並ぶが、不思議と違和感なく調和がとれている。最も有名な建物は、全米一美しい図書館とも称されるスザロ図書館。勉強に耽る学生とカメラを構えた観光客が不思議なコントラストを見せている。その他にも、マイクロソフト創業者ビル?ゲイツ氏の寄附で建てられたホールや校舎があることでも知られる。巨大な噴水の向こうにはマウント?レーニア。自然も景色に取り入れる、まさに粋である。
私はChristine K. Luscombe先生の研究グループに所属している。神戸生まれ?神戸育ちという、私と同じ経歴を持っていることに強い親近感を覚えた。少しだけ日本語で挨拶を交わしたが、それでは何をしに来たのか分からない。以降は一度も日本語を使っていないことをここに記しておきたい。Luscombe研では、共役系ポリマーを精密に合成する手法を開発し、様々な分野への応用を展開している。有名な研究業績のひとつに、共役系ポリマーであるポリ(3-ヘキシルチオフェン)の末端に機能団を修飾する触媒を世界に先駆けて開発したことが挙げられる。ここで私は、専門である錯体化学の観点から触媒のデザインを提案し、実際に合成や解析をやってみせながら新しい考え方を学生に伝えようと試行錯誤している。私のデスクの両脇にあるホワイトボードは、学生との議論で常に構造式で埋め尽くされ、皆の熱量の高さに圧倒される日々である。指導にあたって立ち上げたテーマは一進一退といったところだ。美しい触媒の結晶が得られる日もあれば、前夜に仕込んだ触媒が朝には泥のように沈んでいる日もある。日本ではめっきり実験しなくなった私にとっては、一喜一憂しながらの日々は懐かしくも新鮮に感じる。そして良いことがあった日もそうでない日も、抜けるような西海岸の青空が、また頑張ろうと気持ちを前に押してくれる。
研究文化の違いに驚くこともある。私の周辺にある各研究グループは測定装置をあまり所有していない。ほとんどの測定装置が共用になっており、それぞれに専門の技官がついている。依頼測定をすることもあれば、トレーニングを受けて自分で使うこともあるが、とにかく質?量ともに優れたデータが効率よく手に入る。また、学生のデータ解析に対する意識が高いことに感銘を受けた。合成化学の研究室でありながら、多くの学生がPythonを用いてデータ処理を行っている。大学側もデータサイエンティストによる技術支援サービスを提供しており、ウェブサイトを見れば“いつ誰にどのようなデータ解析の相談ができるか”が提示されているのが魅力だ。研究室で合成したポリマーは、あっという間に定量化?可視化されていく。日本との差に強い危機感を覚え、父親に頼んでプログラミングとデータ解析の本を国際郵便で送ってもらった。今もアパートに帰れば本を片手にパソコンと向き合っている。新しい議論の芽が生まれたことに高揚感を抑えられず、話題に挙げてみると学生の食いつきは上々だ。まさか、実験化学の研究室にきて皆でパソコンを囲むことになるとは。想定外の事態も醍醐味の一つであろう。
最後に、アメリカに来て好きになった挨拶がある。研究室の友人でもスーパーの店員でも、別れ際には”Have a good day.” ”You too.”と声をかけあう。なんとなく本当に良い一日になる気がする。そして相手にもそうであって欲しいと願う。「お疲れ様」も悪くないけれど、お互いに「良い一日を」と言えるような心を持てたら、毎日がもう少し明るくなるかもしれない。
(謝辞)
今回の海外派遣を受け入れてくださったChristine K. Luscombe先生に感謝申し上げます。スーパーグローバル大学創成支援事業ならびに国際課の皆様には、多方面でのサポートを頂きありがとうございます。また、私の海外派遣をご容認下さった応用化学課程の先生方、ならびに中建介研究室の皆様には心より御礼申し上げます。そして、妻?娘をはじめとする家族に感謝してこの体験記を終わりたいと思います。