所属 | 分子化学系 |
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氏名 | 池上 亨 准教授 |
期間 | 平成29年12月17日-平成30年10月4日 |
滞在先 | テュービンゲン大学(ドイツ) |
私が滞在しているテュービンゲンは、ドイツの南西部、バーデン?ヴュルテンベルグ州にある。この州の経済の中心地、シュツットガルトからは電車で1時間ほど離れている。Eberhard Karls Universit?t Tübingen(エバーハルト?カールス大学テュービンゲン(テュービンゲン大学))の歴史は古く、初代ヴュルテンベルグ公であったエバーハルト一世が1477年に神学?法律学?医学?哲学の四つの学部を伴う大学を設立したことに始まる。同時期に建てられたStiftkirche(スティフト教会)の隣に開設された当時の校舎は「Alte Aula」として現存し、開学300年記念(1777年)に改装が行なわれた由、銘板に記載されている。
1536年にはこの校舎の近くにEvangelisches Stift Seminary(スティフト教会神学校)が設立され、ヘルダーリン(詩人)、ヘーゲル(哲学者)、シェリング(哲学者)、ケプラー(天文学者)などが学んだ。ヘッセの「車輪の下」はこの神学校での生活を扱ったものであり、教会前の書店では無名時代のヘッセが働いていたことを記念する展示室がある。ノーベル賞受賞者も多いが、これらの学者を顕彰する像や碑はほとんど見られない。私がよく利用したGmelin Handbuch der anorganischen Chemie(グメリン無機化学ハンドブック)の著者グメリンもテュービンゲン大学で学んだ一人であり、講義でよく説明するWittig反応の開発者ヴィティッヒもこの大学の学生かつ教授だった。アルツハイマー(医学)もここの卒業生である。ホーエンテュービンゲン城の厨房ではMiescherが核酸を発見した。前述の教会も城も現在は大学の施設として使われている。ドイツでは9つの大学が重点的な教育研究の拠点に認定されており、テュービンゲン大学もこの一つである。薬学研究に限れば、世界で18番目にランクするらしい。昔も今もドイツを代表する大学であり、かつ大学街である。人口86,000人のうち学生が28,000人、教員が4,800人おり、ドイツでも最も平均年齢が若い街である。海外からの留学生4,000人、研究者1,000人が在籍しているため、街では様々な言語が飛び交い、活気に満ち溢れている。エバーハルト一世がエルサレムへ巡礼に出かけた際に選んだ「椰子の木」の紋章が大学のシンボルマークである。この大学はまとまったキャンパスを持たず、旧市街エリア、ウィルヘルム通りエリア、モルゲンシュテレエリア、ザンドエリアの四つの地域に、94もの建物が点在している。それぞれが「椰子の木」を掲げており、街を歩けばどこかで大学関連施設に出くわす、そんな街である。1995年にドイツの雑誌が実施した「ドイツの暮らしやすい街ランキング」で、テュービンゲンは最善のランクになったそうだ。道路に自転車のレーンがあること、深夜までバスの便があること、旧市街が魅力的であること、テュービンゲン大学が数々の文化的イベントを提供していることなどが評価された。
到着してすぐに、長期滞在のビザ申請の手続きをする必要があった。大学のWelcome centerへ行くと、ここの職員が完璧な日本語で手とり足とり教えてくれた。関西の大学に留学していたそうで、日本語で読み書きもできるらしい。お陰で書類の問題は全くなかった。Welcome centerは毎月何がしかのイベントを企画しており、4月には一品持ち寄りの多国籍パーティがあり、6月にはバーベキュー、8月にはワイナリー見学ツアーがあった。
ドイツでは学生が様々な大学間を移動しながら勉学することは普通であり、どの大学を卒業したかということは日本の社会で考えられているほどの意味を持たないようである。滞在中の研究室に在籍中のPhDの学生7名がドイツの大学を卒業しているが、テュービンゲン大学の「生え抜き」は2名だけである。学費は初年度3000ユーロ、第二学年からは年1300ユーロだそうで随分と安い(かつては無料だったらしい)。社会に出てから再び大学生になることもごく普通である。企業で働きながら修士、博士の学位取得を目指すケースも多く、現に受け入れ先の研究室(M. L?mmerhofer教授)でも数名の社会人が研究を続けている。
日本の大学と大きく違う点は個別の入試や卒業研究がないことである。研究室に常にいるのはポスドクとPhDの学生だけで、マスターコースの学生は幾つかの研究室を行き来しながら修士論文を仕上げる研究室を選ぶ。従って研究室の平均年齢は高く、すでに結婚していることも少なくない。ポスドクとPhDは学費を支払う必要はなく、逆に給料をもらっている。その代わり講義の担当が義務とされており、学生実験や各種講義では単に作業をこなすのではなく実際的な実験の指導を行なっている上、講義では試験問題の作成も担当している。この面では日本のティーチングアシスタントの担当内容よりずっと専門的な知識が要求され、助手や助教の教育内容に近いだろう。講義はドイツ語で行われるもの、英語で行われるものが混在しているが、英語だけで学ぶことは不可能なようである。
私が現在滞在中の薬学研究科でいえば、生化学に関する授業は5つの学期に渡って行なわれ、各学期の試験の全てに合格することが求められている。さらに最終試験として、5つの学期の総合的な内容の試験(本学では大学院入試に相当すると考えられる)が課され、これにも合格して初めて生化学を習得したことになる。ある学期の中間テストではA4の用紙に22ページもの問題が課され、受講生は2時間でそれを解く。全て記述式の問題で、実際の実験データをもとに解答する問題がある点は本学の実験終了時のテストと似ていた。(採点の手伝いも試みたが、手書きのアルファベットは判読困難なケースが多く、すぐに断念した。)学生の成績表が廊下に張り出されているが、各学期の試験で不合格の学生の割合は1割未満である。連続で不合格の学生は極めて少数であり、ほとんどの学生は意欲的に取り組んでいる様子が伺われる。(成績表には氏名や学籍番号は一切記載されず本人のみが知らされている個別番号が示されている。)一方、学生実験の成績を見ると不合格の割合は2割ほどあり、かなり評価が厳しい印象を受けた。小さな文字でびっしりと書かれたレポート(これはテストと違ってPCで作成されており読みやすい。)は30枚を超えることもしばしばで、得られた結果全てを基に論述する力を重要視する姿勢が垣間見られる。下記のインターンシップでもレポートの作成が求められるが、40ページ以上のレポートが提出されたのを見ても、日本との違いを実感する。
滞在先の研究室が提供している生化学の授業はドイツ語で行われる科目であったため、この教壇に立つことは早々に諦めた。海外からの博士課程留学生にも無理なようである。研究室では毎週グループミーティングが行われ、そこで2回、各1時間半程度の講義を担当した。聴衆は博士課程の学生なので、専門的な内容でも難なく理解してくれる。言葉を尽くして説明する必要があまりないため、こちらの英語のスキル向上にはつながらなかった。
最も時間を割いたのは、修士の学生が受講する「Wahlpflichtfach Praktikum」(選択科目のインターンシップ)での指導である。これは1?3週間にわたって修士の学生が研究室を訪問し、最先端の研究の一端を担当することで様々な実験及び研究のスキルを身につけるものである。指導側と受講側の都合によって実施日程が決められるので、実習の頻度は週によってまちまちであった。 この科目については研究室に以下のように掲示されていた。
5月2日から6月6日まで、6月11日から7月4日まで、6月26日から7月31日まで、7月末から8月10日までの4期を担当した。8月28日からさらに3週間のインターンシップを担当する。生体関連物質の機器分析と医薬品分析の内容を担当したため、1、3、5期は同じ内容、2期と4期は別の内容を扱った。幾つか実験結果が出るたびに担当者と受講者がデータを前に議論し、次に行なう内容を決める形式の実習であり、実際の研究指導とほぼ同じである。学部生の実験とは異なり、実験結果が予想できずしばしば意図しない結果になったが、問題点を確認し解決することで当初の目的に近づけてゆく。実習終了後には受講者によって発表が行なわれる。これらの実験は、後ほど結果を整理して学術雑誌に投稿する前提で設計した。
実験内容の概要についてL?mmerhofer教授と数回話し合った。この際重要視したことは、修士の学生に理解および実施可能な内容か、実施期間に対して妥当な内容が設定されているか、安全面、コストの面で問題はないか、そして最も重要なことは最終的に論文の形にできるかという点であった。実験廃液を削減するための方針も議論した。博士後期課程の学生とより詳細な実験内容の打ち合わせを行った。この実習内容については特に公表されず、受講希望者は担当教授に連絡を取って初めて知る。受講者が各期間2名と少ないこともあり、弾力的に運用されている。開始時には実施内容の全体的な説明と、特定分野の詳細な内容を1?2時間講義した。教授がその骨子を提案することもあり、私に一任される場合もあった。全部で8名の学生を指導したが、みな意欲的であり、わからないことがあれば積極的に質問し、情報や助言が必要ならば求めに来る。結果がある程度まとまれば議論のお誘いがかかる。指導側は最終報告書の作成やプレゼンテーションのファイルをチェックし、修正コメントを加え、データのまとめ方に注文をつけ、引用文献を入れることを要求し、と実際の論文の作成に必要な作業をすべて経験できるようになっている。これは指導する博士課程の学生にも有益である。こうして数ヶ月で論文にする内容が出来上がってゆく。関係者全員にWin–Winの結果をもたらす素晴らしいシステムである。
博士後期課程の学生の研究指導は主に3名を対象に行なった。京都工芸繊維大学で開発した分離媒体が企業との共同開発で商品化される予定であるため、その雛形の製品を持ってドイツに渡った。1名とはこれを使って医療用ペプチド医薬中の不純物を分離同定する研究指導を行なっている。分離条件の最適化と、質量分析装置に連結して分子量を基に不純物ペプチドの配列決定および設計されたペプチドからの差異の特定を目指している。次の1名はミックスモードHPLC固定相の合成を行なっていたが、カラムへの充填に問題を抱えていたので、平成29年12月より平成30年2月末まで指導した。充填の条件をいくつか検討し、作業工程の問題点を指摘、修正することでカラムの性能の改善ができた。ここで得られたカラムは平成30年4月以降、フランスの大学との共同研究に使用されている。このミックスモードHPLC固定相の研究成果を、5月中旬にイタリアで開催された国際学会(キャピラリークロマトグラフィー国際シンポジウム)で報告した。イタリアまではL?mmerhofer教授が車で連れて行ってくれた。この内容は近いうちに論文として投稿する予定である。もう1名とは生体由来の多糖の分離の研究を指導している。医学部から回ってきたサンプルで、溶解性にやや難があり容易ではないようだ。
他国のPhDの学生が研究室に6ヶ月だけ滞在したり、国際学会に手軽に出席できたりといろいろな国が地続きになっていることを実感した。研究者同士が顔を合わせてコミュニケーションする頻度がとても高い。この点では日本は不利だと言わざるを得ない。
この派遣期間に最も問題だったのが銀行関係である。ドイツでは銀行口座を持たないとあらゆる送金ができない仕組みになっている。にもかかわらず、いくつかの銀行では滞在1年未満の者には口座の開設を断るケースが多い。パスポートが身分証明書として機能しないなど、謎のトラブルに巻き込まれつつ最終的に3月にネットバンクの口座を開くことができたが、使い勝手は良いとは言えない。口座維持費(日本の手数料が可愛らしいくらい取られるのが普通)がないことがせめてもの救いである。
滞在中に??年ぶりの、というものをいくつか経験した。まず2月の寒波。イタリアでは60年ぶりに大雪が降り、当地でも氷点下15度の日が数日続いた。ホテルに泊まることになっていたが、先方のダブルブッキングのせいで物置のような部屋で眠ることになり、経験したことのない寒い夜を過ごした。明くる朝、ダイヤモンドダストを見た。ワールドカップロシア大会では、ドイツ代表が80年ぶりに決勝トーナメントに進めなかった。期間中はいろいろな食品がドイツ国旗の三色に展開されて楽しませてもらった。写真はスーパーで買った寿司である。そうして7月の酷暑は350年ぶりだそうでヨーロッパ各地で「世紀の夏」となった。いろいろな農作物に大きな被害が発生しており、ワインやジャガイモの値上がりが予測されている。
ドイツに暮らしてみて意外だったことは、「ジャガイモとソーセージだけの生活」ではないこと。学生食堂は毎日全く異なるメニューを3?4種提供しており、3ヶ月ほどのサイクルで回っている。ベジタリアンの学生も多いため、メニューのうち1つ2つは必ず精進料理である。卵や牛乳は良しとする人から、植物性食品以外は食べない人までいるので、材料の表示には注意を払っている。街のスーパーは学生の懐を考えてのことか、安いことを第一に考えた商品展開である。日本料理といえば寿司だけが認識されており、小さなスーパーにも海苔や巻きす、わさびが売られているが、他の和食はほぼ見かけない。「すきやき」のキットが売られていたが、明らかに麺料理だった。まだまだ日本は未知の国だ(ドイツ人によれば、言葉が全く違うのでアクセスする糸口がないとのこと)。一方、ドイツ伝統の食品はハムやベーコン、ソーセージだけの棚、チーズだけの棚がいくつもある。それだけ多種多様な製品を作り分けているので、ドイツ人は食品、分けてもその品質には誇りと高い要求を持っている。ビールの醸造所の中には14世紀から続いているところも少なくない。ワイナリーも同様である。
煙草を吸う人が多く(日本もそうだが)禁煙エリアの表示があっても気にしない人がいる。米国では考えられないことだが、バス停で、人ごみで、煙草に火をつける人が少なくない。吸殻はほぼ道に捨てるので、眉をひそめることになる。このような自己中心的な態度とはうらはらに、困っている人を助けるのは市民の義務だそうで、駅の階段やバスでベビーカーや車椅子、重い荷物を運ぶのを手伝ったりするのはごく普通のことである。この国はバリアフリーという概念とは無縁だが、何とかする術は持っている。そうかと思えば、電車やバスで知らない人の隣に座ることを嫌う人が多く、四人掛けのシートに一人が座るとずっとその状態が維持されている。
照明が暗いのもドイツの特徴かもしれない。日中は蛍光灯をつけず、夕方になっても明かりなしで過ごす学生がいる。夏になって屋外で食事を提供するレストランが多いが、基本的に小さなロウソクの明かりや街灯が光源である。多くの人は暗闇に近い状態でも悠然と食事やビールを楽しんでいる。何を食べて飲んでいるのか、どんな色の料理かが傍目にはしかと分からないけれど気にしないようである。
ドイツの研究室の雰囲気は日本のそれとは随分違う。朝早くから始めて、3時か4時には帰る学生が出てくる。多くの場合無駄口を聞かず集中して自分の仕事を続けている。6時53分になるとドラフトが停止するため、あちこちから空気の漏れるような音が聞こえてくる。この時間になると、半数以下のメンバーしか残っていない。おそらく会社でもそうなのだろう、いかに集中して短期間で仕事を終わらせるかが彼らの関心の的である。1日の労働時間を5時間に短縮する試みもなされているようだ。これは実際に良い効果をもたらしているらしい。フランスやイタリアなどでは夏休みが2ヶ月近くあると聞くが、ドイツでは2週間程度である。ヨーロッパ諸国へ、また南アメリカやアフリカ、東南アジアに行く学生も多いが、不思議と日本に行ったという話は聞かない。メンバーの誕生日が回ってくると、お祝いを受ける本人がケーキやお菓子を用意するのが習わしである。スパークリングワインで乾杯するため、研究室にはシャンパングラスが常備されている。6月には研究室全員でホーエンツォルレン城へ遠足に出かけた。ここはプロイセンの王の居城であり、今も個人(王族の末裔)の所有する城である。ドイツ三大名城は全て訪ねたが、ここが最も素晴らしいように感じた。
州によって労働時間が違うのも印象的だった。バーデン?ヴュルテンベルグ州ではスーパーは午後10時まで営業するのが普通だが、隣のバイエルン州では午後8時までと決まっている。いずれにせよ日曜日にはほとんどの店が閉まる(レストランとパン屋は例外)ので、買い物は土曜日のうちに計画的に済ませる必要がある。祝日やクリスマスにもほとんどの店は休みだった。写真はシュツットガルトのクリスマスマーケットであり、ドイツ最大規模を誇っている。実際、全ての店を見て回るのに3時間では不十分だと感じた。レースや木工細工などの手工芸の店、ソーセージやグリューワインを売る店が多く、寒い季節にもかかわらず祇園祭の宵山のような混雑ぶりだった。
テュービンゲンではクリスマスマーケットの代わりにチョコレートマーケットが開かれるそうで、近隣諸国から多くのチョコレート屋が出張して賑わうそうである。残念ながら私が着いた時にはすでに終わっていた。そんなわけで、テュービンゲンのクリスマスはとても静かで、お祭り騒ぎとは無縁だった。多くの家では星の形のランタンを吊るし、いろいろな飾り付けを施していた。教会では降誕劇が演じられ、ミサもあった。せっかくの機会なので行ってみると、長いお説教の後で、皆で賛美歌を歌うことになった。クリスマスの飾りは年が明けても随分長いこと飾ったままにしているところが多かった。薬学研究科のクリスマスパーティというのもあった。レストランを貸し切って、18時から真夜中まで延々と楽しむのはヨーロッパの宴会の常である。お題に出たランダムな言葉を織り込んだ詩を作って競ったり、ビンゴゲームに医薬品の名前を使ったりと、大学らしい余興があった。
不要になったものを箱に入れて、ご自由にお持ち帰りください、とやっているのをよく見かける。読み終えた本とか、着なくなった服、食器、果ては家具や電化製品まで、いろいろなものが置かれている。8月には、リンゴが置かれてあるのを目にするようになった。いたるところにリンゴや洋梨が植えられており、木の下には自然に落ちた実がたくさん転がっているのでこれももらって大丈夫なようだ。枝もたわわにリンゴが生っている様子は、南の育ちの自分にはとても新鮮な眺めである。
スティフト教会では毎週土曜日、Tübingner Motetteと称する音楽会が開かれている。7月21日がこの夏の最後の回(8月は毎日昼にオルガンコンサート、土曜日は有料のコンサートがある。)で、通算2,929回の音楽会だった。週によってパイプオルガンだけのこともあれば室内楽だったり交響曲だったり、あるいはコーラスだけのこともあった。大編成のミサ曲や受難曲も聴いた。日本のコンサートやCDなどで接する機会のあるポピュラーな曲はほとんど選ばれず、バッハが演奏されても普段耳にすることのない曲であった。見たこともない古典楽器を演奏する人がいるのも驚きだった。普通のコンサートと違う点は、途中で必ずWochenlied(今週の歌)と称して参加者全員で歌う時間が設けられていることである。パイプオルガンの長い前奏が続いていても、歌うべき時がくるとピシャッと合ったタイミングで皆が歌い始める。どこかで練習するのか、あるいは初見なのかわからないが、ドイツ人の教養の深さを感じる瞬間である。この音楽会は全くの無料であるが、歌詞や楽譜を印刷した冊子を毎週用意しており頭が下がる思いである。クリスチャンでもないのに、音楽会に出るために毎週のように教会に通うことになった。古く、天井の高い教会の空間いっぱいに重層的なパイプオルガンと人の声が響く雰囲気は日本では体験したことのない荘厳なものである。時に重々しく、あるいは軽やかにいろいろな音に体全体が包み込まれるような感覚はなかなか他では得られない。
教養といえば、L?mmerhofer教授の息子さん(中学生)のことを話していると、何とラテン語を習っているとのこと。うっかりと「どこでも使われていない言葉なのにラテン語なんて習うの? 教会では使うかもしれないけど」と言うと、「ラテン語は全ての学問の基礎になっているからね。僕もかれこれ6年ほど習ったかなあ」と返ってきた。受験に必要でない教科は勉強の対象から外してしまう国とは、土台からして違うなあと驚かされた。無用の用、ということに基づく、ドイツ人の知性と教養の背骨の太いことには感心させられる。思えばチュービンゲン大学の校訓はAttempto(試行錯誤しながらいろいろやってみる)である。深く考えた上で紡ぎ出された短い言葉の示すものは、力強く、重い。
この度の派遣事業ではSGU創成支援事業ならびに国際課総務係の皆さんには大変お世話になりました。宮本真敏先生を始めとして分子化学系の先生方には留守中の職務を分担いただき、感謝の想いでいっぱいです。この場を借りて厚く御礼申し上げます。受け入れを快諾頂いたMichael L?mmerhofer教授と研究室のメンバーには様々に協力いただきました。感謝するとともに、今後も良い関係を続けてゆけるよう、密に連絡を取り合い互いに高め合ってゆきたいと思います。